昨日は休みでして、青森県三沢にある寺山修司記念館に行ってきました。
僕は今回で2度目の来館。
寺山修司が亡くなってから今年で30年とあって各地で大小様々な寺山関係のイベントがおこなわれてるのではないでしょうか。
昨日のイベントには僕の大好きなミュージシャンである、三上寛さんがライブをして、その後寺山修司とゆかりのある方々のトークショウが行われる
という話を聞きつけやってきました。
寛さんのライブを観るのは以前高円寺の場末のライブハウス「無力無善寺」で観た以来。あのライブハウスの場末感はたまらない。
寺山修司に触発された現代詩的響きの詩と音世界、その叫びは狼の咆哮のように強く、孤高で、祈りの様です。
ミュージシャンとしてここまで表現の域に達している方も少ないと思うので、一度は三上寛の世界に触れてみて欲しい。
ただし寺山修司の世界と同様、どぎついまでのドロドロ感と挑発的なまでの表現は人を選ぶかもしれない。
途中からコンテンポラリーなダンサーとの共演では、もはや三上寛のエモーションが憑依し幽波紋(スタンド)と化していた。
その後ステージでは生前の寺山修司を知る方々の座談会。
写真右から元寺山修司夫人九条今日子さん、写真家ハービー山口さん、三上寛さん、映画「書を捨てよ町に出よう」に主演していた佐々木英明さんが当時の思い出話を交えつつトークを展開。
タモリにも伝授したという三上寛による寺山修司のモノマネから始まった座談会。似てるというより、まさしく憑依的でゾッとした(笑)
人間寺山修司に迫れるのは当時を知る方の言葉に頼るしかなく、大変興味深かった。
天才か怪物か?と作品にだけ触れてると恐ろしさすら感じるのだけれどハービー山口さんが撮ったにこやかに手をあげてる寺山が本当の寺山です、という九条さんの話で人間だったんだ!って
妙に安心した。
三上さんが言っていた言葉で印象的だったのが寺山は「血のコーディネーター」だったんだという言葉。
一人で書き始めた詩が、同じような血を持つ人間を引き寄せ演劇集団「天井桟敷」のような集団生んだ。
これは言い得て妙だった。
寺山修司の詩や表現は今の時代でも、自分の言葉、自分の表現で戦えと強く挑発してくる。
まず自分の中にある毒に自覚する事だ。
最後に僕が好きな詩の一節『人力飛行機のための演説草案』より
「俺は自分を飛ばすことにばかり熱中している一台のグライダーだった 」
この詩でその気になって生きていた事があった。